思いやりにかける人の人格形成☆私の育ちと優しくない人に育った原因。
元・優しくない人の私が解説する。
いま、大人になり大分世の中的に普通と言われる感覚を30半ばをすぎてやっと身につけてきたのだが。
昨日、久しぶりに家族がうちに集まって本当に疲れ果ててしまった。どうしたら現状を変えられるのだろう…。優しくない人というのはその人単体の問題ではなく周りの環境と人間関係が複雑に絡み合って形成されるものだと思う。
私も思い返すと本当に優しくない人だったと思う。
学生時代の私とは私自身友達にはなりたくないし、やたら大人びた上にひねくれた可愛くない子だった。妹も昔の自分とは友達にはなりたくないとたま話している。とはいえ私たちは可哀想なくらいいつもなにかが足りなくて枯渇に苦しむ日々だった。助けてくれたり庇護してくれる人はいなかったから。
紆余曲折して、ようやく満たされたが最近理解できるようになってきた。これを獲得するまでに恐ろしいほど長い時間の矯正をしてきた。
そんな私が今だから振り返れる優しくない人や自分勝手な性格がなぜ形成されるのかを書いてみようと思う。
一番の原因は常に搾取される日々だろう。
正常な家庭で育った人にはこれは決して理解されることはないと思う。私も妹も子供時代と言われるものは思い返すとほとんどなかった。親という名の子供に育ててもらった子供だからだ。
親は常に私たちと同レベルだった。
イライラしたときは当たり散らされるし、いうことを聞かなくて腹が立つと暴力に訴えるか報復行為をされた。大人だからと一歩引いて諭したり叱ったりはなく感情のままに殴られるか罵られるか、バカにされるかだった。
ただ、歳を重ねて身体的には大人だけれどその実中身が全く育っておらず子供のままの大人だったのだ。
親自身、その親(私からみた祖父母)からの怒りが支配する家庭に育ち、殴られたり怒鳴られたりしないようにいつも親の顔色を伺いながら育ったのだった。それがただただ負の連鎖として私たちにも回ってきただけだ。
されてきたことに疑問を感じることなくそのまま私たちにしたのだから別にそれはむしろ正常なことだったのだ。
↑よく考えると異常。
そんな異常なことが私たちの家庭内では当たり前なのだから、異常=正常な常識となる。
むちゃくちゃな常識だったけれど当たり前すぎて誰も疑わなかった。親だから言う、愛があるから叩いている、そう言われるとそれが愛だと思っていた。大人になってからかなり異常だったんだと気づいたけれど、それは常識なんか場所に寄ってコロコロ変わるもので常識なんかないんだと強く思うきっかけになった。
このほかにも親が貯金箱からお金を借りていき返済されなかったり、思春期にかけて太ればブスだのデブだの罵られるのはいつものことだった。可愛げがない子とよく言われたけれど…、いつも破壊行為や恐怖政治を強いられるのにどうやったらあの環境で可愛い子が育つのだろう?
私はいつも親の顔色を伺う可愛げのないひねくれた子に必然育った。褒められた記憶はどんなに思い返しても見当たらなかった。
この話の一番恐ろしいところは元を正せば全員が被害者ってこと。
親もその親からされてきたことをしているだけなので関わる人全員が愛がわからない、優しさを学ぶ機会を逃した被害者なのだ。正常な状態を学ぶ機会が与えられず大人になると親のように加害者になる。
このことに気づいてしまうと悲しくなる。
全く関係ない正常家庭で育った人たちは関わらない選択が一番だし、優しくない人=可哀想な人なのだと思って離れたらいいのだと思う。
けれど私のようなそこで育ってきた人間には、優しくない人たちがなぜそうなったのか、優しするやり方を知らない気持ちがわかるし、優しくない人自身が一番愛が足りない状態なこともよくわかる。
そこで倫理感に照らし合わせるとやることはたった一つしかない。優しくない人に愛を傾けること。それだけだ。
優しさに気づけるか気づけないかは相手の素養にかかっているけれど私の場合は今世家族な以上やるしかない。宿命は変えられないし、さらに深く掘り下げると私がどこかの過去世で撒いたカルマの回収が今なのだったら周りの人の学びを手助けしたい。そうすれば来世きっとみんな少しだけ今より幸せになれるからだ。
さて、この話を書こうと思った事の発端は昨日の餃子パーティー。
休みの日の当日の朝にいきなりうちにみんな集合することになり夕飯を食べることに。
いきなり来るから予定返上で掃除洗濯に追われ、ひと段落した頃、LINEでいきなり餃子を作ろう!と言う流れに。
ええ…餃子…。
何時に集合?と聞いても時間は決まらずとにかく子供がいるので床が汚れないようにレジャーシートをひいて来るのを待つ。
やっと集合したのが17時半。
みんな時間とかこっちの準備には興味がない。
そこから誰が餃子を作るのかと思えば全員テレビ見ている。
やはり私がやるのか…。
私一人で餃子の種を仕上げて19時。
お風呂に入って帰りたいというからその合間に慌てて風呂の準備。
包むところだけみんなお手伝い。
その後すぐに子供のお腹すいたコールが始まり、
慌てて焼く←もちろん私。
焼けたところから私以外のみんなはテレビ見ながらご飯スタート。←私は一人キッチンで焼き続ける。
私が食べてないことにはみんな無関心なので…
焼きながら私は一人でキッチンでご飯食べる。
…やっと終わって果物を出したらみんなほとんど食べきられて私の分ない。
子供たちが遊ぼうと騒ぐ。疲れたから誰か遊んであげてくれないかな…大人は全員無視してテレビ見ている。
結局私が一人で子供たちと遊ぶ。
…なんて、優しくない環境なんだろう…。。
まあ、思い返せば昔からこうだったよなあ…。思い返せば母もずっとそうやって一人でキッチンに立っていたなあ。それが当たり前すぎて、助け合ったり料理が仕上がるのを待って全員で食卓を囲むことがうちにはなかったなあ。。
色々反省もある。でもなにをどう改善したらいいのかわからない。どう伝えたら伝わるのかもわからない。
せめて子供たちが少しでも昔の私みたいにならないように向き合って行きたい。二人には大事だよ、大好きだよと伝えたい。
しかしどうしたら…、歯痒い思いをしながらも結局やることは諭したりキレたりすることではなく親切に優しく真摯に向き合うこと。それ以外思い浮かばない。
これが優しくない環境で育ち、優しくない人格が出来上がるということなのだろう。事実だけ羅列するとやはり結構ひどいな笑。
休みが一日返上になり、餃子を仕上げてクタクタになったのだった。