〝これが私〟と思っているものは大抵、本当の私ではない。
先日、妹の子の幼稚園の作品展に行ってきた。
カラフルで可愛い絵がたくさん飾ってあった。先生たちは前日夜中まで準備をしていたようでその飾りは目を見張るものがあった。飾ってある絵たちは描く子たちがまだ幼いからか、題材は決まっているようで構図は大体同じだったのだが。
そんな中でも私が一番興味深かったのが、子供たちの描く絵はクラスを受け持つ先生の人間性が色濃く反映されていることだった。
明るい先生のクラスの子たちは描く絵もカラフルでのびのびしていてなんだか楽しい。
落ち着いた先生のクラスの子たちはわりと控えめな感じ。
姪のクラスの先生は落ち着いた絵が多く可愛いかった。
明るい先生のクラス子たちは絵も何か楽しそう。
絵を見ながら、見ている世界が人によって違うことがすごくわかるなと思った。子供は小さいから何を描いていいかわからず、先生から指導を受けて素直に描くのだろう。先生の人間性がわりとダイレクトに反映されていてとても面白かった。
世界は中立。しかし思考や感情、育った環境、培った経験というフィルターを通すと人によって世界の色が変わるということ
育ってきた環境やまわりの考え方、人の影響を自分の一部として吸収する。その人から吸収したものの寄せ集めを自分と思い込む。自分と思い込んだそれを判断基準にして人は世界を見ているのだ。母と毎回話していても思うが、彼女は被害者意識が強いところがあって、
〈あんまり言われると辛いからそんなに責めないで〉
とよく言う。私としては責めてるつもりは全くないので、
👩🦰〈責めていないのだがなんで?〉
となるのだが小さい頃から怒られてばかりだったのだろう。ちょっと語気が強いと怒られているとなるようだ。
また怒られる、バカにされるという判断基準を通して世界を見るから、〈服が変だと笑われた〉とか、〈手がムチムチしていて気にしているのに指摘された〉とかそんな話をよくしている。
はなからそんないつもバカにされ怒られる判断基準を持ち合わせていなければ、何を言われても〈あなたはそう思うんですね〉でなんとも思わない。判断する基準になる感情がそもそもないからだ。
今〈自分〉だと思っているものは案外周りや親の意見を取り入れて組み合わせただけのもの。
絵を見ながら、自分という自我の曖昧さを反映していると思ったのだ。絵を描いた子たちは先生の人間性も知らず知らずのうちに自分の判断基準の一部にするのだろう。
親の考え方も吸収、引き継いで20才までに積み重ねた周りの人の判断や考え方を基準に〈これが私〉という自分を作り上げるのだ。
感情の解放をひたすらに続けてきた私は解放が進むにつれて、大人になるまでに〈これが私〉だと思ってきたものが実は全く自分じゃなかったことに酷く驚いたのだ。
〈これが私〉だと思っていたものは周りの意見や価値観、親の偏見がその大半だった。自分だと思っていたものの90%は自分じゃなかったと気づいた時の衝撃といったら!
👩🦰〈これが私だと思ってたものが全く私じゃなかった😱なにこれ怖い。アイデンティティってなんなの?〉
感情が解放されていき、判断基準にしてきた偏見がなくなっていくと初めて本当の意味での個性が発揮されるのだろうと思う。裁く感情がないことは非常に快適なのだ。
妹が、最近しきりに勧めてきた一冊。
この本がまさに、自我の曖昧さを的確に書いていて感動した。
話は読んでると、自我の曖昧さが明確になり不安になってくる内容なので、私は半分でギブアップだったが、主人公の古倉さんの視点は非常にわかりやすく〈私は周りの人を混ぜ合わせたもの〉ということを書いてある。
評価も高いので、本好きにはオススメする。