愛ってなんだろう?本能的な愛と理性を伴った愛②
前回の続き。
では、本能的な愛に対する
理性的な愛とはなんだろう?
※特に宗教は信じていません。あしからず。しかし、全ての宗教の開祖さんがいうことの核は大体同じと感じます。
それは、簡単にいうとキリスト様やお釈迦様が言ったように利他の愛というものだ。本能に基づいた愛とは違っていて理性を伴う愛は人間だけに与えられたものと言える。
※調べてみた。人のために尽くすってこと。
キリスト様のいう利他の愛は隣人を愛せ・汝の敵を愛せ・右の頬を殴られたら左も差し出せ・という非常にハードルの高いものである。真理に基づいて動き、磔刑にまでなったキリスト様は本当に利他の愛を全力で実践、体現して見せた意志の強い凄すぎる方なのだ。
👩🦰〈私は殴られたら殴り返してしまいそう😱〉
だからこそ神レベルなのだろう。
2000年経っても知らない人はいない。
彼がいた2000年前は今より野蛮で残酷な人ばかりだったのは容易に想像がつく。ローマ帝国ではコロセウムで剣闘士の殺し合いを娯楽にしてたくらいだ。
👩🦰〈現代から見たらただの殺戮じゃないか。野蛮で人の痛みなんか考える連中ではない。〉
そんな中で隣人を愛せと利他の愛を説いたのは奇跡だし、それを定着させるために奔走したその苦労は想像を絶するだろう。周りはそんなの考えたこともない利己的な人ばかりなのだ。私は宗教はやらないけれど、過去の宣教師やお坊さんがみんなを救おうと命がけだったことはわかるし、命をかけても人を救おうとした彼らが宗教の違いを超えて素晴らしい人々だったことはよくわかる。その根底にあるのが利他の愛だ。
👩🦰〈突き詰めて考えると利他の愛、それは真実だろう。しかし一般人にはまだまだハードル高すぎ!〉
真の意味での利他の愛を実践し、できるようになるのはかなりの忍耐を必要とする。そして世俗に生きていたらなかなかにハードなのもわかる。だからこれからいうのは、本能的な愛に理性を少しだけ足したらどうかという現実的なお話。利他の愛を極めるのはそれができてからずーっとずーっと先のことだから。
理性を伴った愛とは。
人は好きなものや興味があるもの、気の合う人や血縁関係のある家族を愛することは比較的簡単なのだ。それは自分が好きなものであり、自分の家族や自分の友達なのだから簡単なのは至極当然とも言える。端的に言ってしまえば自己愛の延長なのだから。
しかしながら、理性を伴う愛は果てしない忍耐と懐の深さを必要とする。嫌いなものや、受け入れられないものに一定の理解を示すことは決して容易ではないうえ、自身の感情だけを頼りに判断することをしないからだ。できないのではない、忍耐を選んでしないのだ。
好きではないものを好きではないと拒絶し受け入れないことは子供や動物でも自然にしている。本能に基づくものだから。特に何かをしなくともそれは生まれたときから備わっているものなのだ。
しかし対する理性を伴った愛は自分で育てていく必要があり、生まれてすぐに備わっているものではない。自分から離れて一度立ち止まって相手の立場に立って考えて考察することを必要とするのだ。そこに感情というフィルターを通した偏見や自己保身はない。果てしなく中立な見方があるだけなのだ。
精神的な成熟がなされていないと理性を伴って相手を愛することは難しくなる。
三日坊主という言葉があるように、感情は天気と同じでコロコロよく変わるのだ。体調や相手の言動ひとつで嫌になることすらある。そんな中で愛を継続するには理性がないと困難なのだ。
アダルトチルドレンを代表とするように精神的に成熟するタイミングを逃してしまうといつまでも本能に振り回される恋愛を真実の愛だと勘違いする。そして好きや嫌いといった感情に振り回され続けてしまう。不毛な恋愛を何度も繰り返してしまうし、結婚して子育てをする上でも感情を基準にした本能的な愛に頼ることになるのでそれは酷く不安定でムラのある愛情になるのは想像がつくだろう。
子供は非常に不安定な子に育つ。私のように。
でも、冷静に考えてみてほしい。
例えばピアノが好きだとして、毎日毎日毎日ずっと一定以上に大好きなんてあり得ないのだ。弾けないときは憎くもなるし、練習がしたくなくて見たくない日もある。熱烈に好きな日もあるし、思うように弾けなくて近づくのも辛い日もある。本当に好きだったのか不安になる日もある。
それは人に対する愛も同じなのだ。
そんな我慢ならない日やうんざりする日を繋ぎ止めて、本能的な愛を辛抱強く継続するのが理性的な愛なのだ。
相手がピアノならば弾けないからといって毎日癇癪を起こして感情的になるだろうか?弾けないから不安だと泣き叫ぶだろうか?
相手が人でもそれと同じような冷静さと寛容力を保つ。それが理性であり、それが人と動物を隔てるたった一つのものだ。
愛が忍耐なのはそういうことだ。
本能的な理性を伴わない愛だけだと
人の迷惑が許せなくなり寛容できなくなる。
私のように理性的な愛と忍耐を伴わない親の元で育つと、その愛は非常に不安定なものになる。親の気分に全てが左右されるからだ。残念ながら子供の人格は伴侶みたいに選べるわけではないので理性的な愛が必須になる。
本能で子育てする親にとって基本的に子供は面倒くさく、思い通りにならない我慢ならないものだからだ。イライラした感情は本能そのままに理性でコントロールされないので子供で発散される。それはさながら子供が子育てするようなものだ。
現に、私は忍耐強く親から待ってもらったことはなかった。いつもいつも急かされて置いていかれたし時間通りに行かない、思い通りにならない私は怒られてばかりだった。存在が迷惑だったのだろう。親の顔色をいつも伺っていた。
そんなこともあって早く大人になりたいといつも思っていたし、人や親にこれ以上迷惑をかけたくなかった。
不完全な自分は親から決して受け入れてはもらえなかったからだ。自然と必死で完璧を目指すようになった。
親にとって寛容できない迷惑な存在であった私は、成長するにつれ人から迷惑をかけられるのが苦手になった。私という存在が親から迷惑だったために受け入れてもらえなかったのだから私自身も迷惑をかける人が理解できないし、迷惑が受け入れられないのだ。迷惑を寛容することの出来ない大人に育つ、それは仕方のないことだった。
理性的な愛のない家庭で育つと人に対する寛容力が身につかない。
結果、本能的な愛だけで結婚した両親はその愛が冷め、理性を持った愛を知らないため優しさのないトラブルばかりが発生する家族と言う名の何のためにあるのかわからない寒い集合体が出来上がっていた。
学ぶ見本がなかった私と妹は愛がわからない我慢ができない親と同じような人間に育った。テレビでたまに見る幸せな家庭とか都市伝説だと思っていた。
子供の迷惑や邪魔を受け入れることのできる理性的な愛を伴わない家庭で育つこと。
それは
◯人の迷惑を寛容できなくなること
◯自分とは違う価値観を受け入れられなくなること
◯色々な人がいると受け入れられないこと
◯利己的になること
健全な家庭で育った人には決して分からないことだろう。精神面の全てが歪められるのだ。
正常な人などいなかった。
理性的な愛がないこと。それは幼い子供の人格形成に多大な影響を及ぼすのだ。
そして、なんの疑問も持たないまま残念な負の連鎖として代々受け継がれることになる。
本能に基づいた愛でスタートさせる恋愛。
それを継続させ、家族として信頼し円熟させていくためには理性を伴った愛が必要不可欠なのだ。
理性を伴った愛。
それこそが本能的な愛には到底足元にも及ばない人間にしかできない真実の愛だと思う。