苦労の効果と意味。苦労は本当にしちゃいけないのか?
昨日は友達のライブを観に。素敵だった☆
そこで色々考える機会をもらった。しかし、とんでもないことに気づいてしまったのだか、どうしたらいいかわからない。笑。気づいたからとりあえず書く📝。
新しく出会った人がとんでもなくポジティブだった。
友達が友達を連れてきて初めましての方がいたのだが、その人がものすごい苦労をしていた。しかし本人がそんなの全く気にしていない様子で(離婚・経営してた会社潰れた・財産分与は元妻にほとんど持ってかれた・投資で3000万が1日でパァ)それにも驚いたのだが、楽観的すぎてとにかくびっくりした笑。
👩🦰〈ポジティブすぎるわ。〉
私の場合、一度それらの感情を飲み込むもんだからそれはそれは消化不良を起こして毎度苦しむのだけれどまともにそのマイナス感情を飲まないからなのか?彼はケロっとしていた。
世の中には色々な人がいる。
そんな彼を見ていて大きな気づきがあった。
苦労している?
のに何故か言動に重みがない。
👩🦰〈かなり不思議。。。〉
失礼を承知でいうと、彼は行動力は抜群なイケメンなのだ。某イケメン俳優に似ている。そしてユーモアがありとても素敵な人だった。
しかし、私には何故か非常に軽く見えてしまった。発する言葉に重みがまるでない、それが主な理由だ。
👩🦰〈超失礼なのは承知してます。でも心理を書くには必要不可欠です。すみません。〉
ひどく苦労しているのに何故こんなに言葉が軽々しいのだろう?それが非常に不思議だったし、違和感が酷かったのだ。
エネルギーでいうと、色々気にしないキャラだけあって比較的軽かった。また、苦労しているようには全く見えない。
本人は苦労を苦労と捉えないタイプなのかもしれない。波動だけでいうと側から見たら苦労していても本人が苦労と感じていないからか高めだった。メンタルが強いか、辛すぎて感情に蓋をしたのか、それとも苦しみと正面から向き合うことをやめたのか?色々推察した。
私が会ってきた苦しみを乗り越えてきた人には特有のオーラや溢れる他者への慈愛、包容力みたいなものを感じることが多かった。
自分の苦しみを通して人の苦しみに寄り添うチカラが人間は増すからだ。
とはいえ苦しみを一度飲み込んでそれを自分なりに消化し、乗り越えるのは並大抵ではないこともわかっていた。毒薬みたいなものだからだ。それを消化し乗り越えた人のオーラは簡単に出せるものではないことも理解していた。
👩🦰〈と、したら苦しすぎて感情に蓋したのかしら?まだ越えてないのかな。。〉
人前では明るく振る舞うことにしている可能性もある。明るい彼を見ながら私はなんだか切なくなってしまった。
👩🦰〈その現実は直視するにはちょっと辛すぎるよね。。。〉
最近は苦労はしないで楽しいことをしなさい・そしたらうまくいく・苦労はしたらいけないという内容のブログが多い。
苦労は悪なのだろうか?
歌い手が失恋に苦しんでいるときに歌う歌は同じ気持ちの人には非常にシンパシーを感じて魂を揺さぶる。失恋したときに聴くと泣けるのはそういう理由だ。波長が合う人にはダイレクトに心に届くのだ。それは寄り添う気持ちに似ていて聞いている人の心を癒す。また、歌い手が魂を込めて歌う歌は聴く人の魂を揺さぶる。世界的に絶大な人気を誇るアーティストはだいたいそれだ。
魂を込めたものは人の魂を動かすのだ。
そのくらい影響力がある。そういったものの裏には歌い手自身の感情や経験した苦労があったりするからだ。しかし魂を揺さぶるとはいえ、苦労はやはりしない方がいいのだろうか?
それは本当に無意味なのだろうか?
頑張ってカタツムリは隣へ移動。
そもそも苦労が不必要だとしたら、私の人生って一体?
👩🦰〈苦労が無駄なら私辛すぎ。笑。〉
私の人生にはあらかじめ多大な苦労が組み込まれていたように思うのだが、それを苦労と思った私が間違っていたのだろうか?私の35年の人生は苦労とそれを乗り越えるための努力の連続だった。しかし、それはしなくてよかったのだろうか?
👩🦰〈苦労したらいけないなら私の今までの人生自体が無駄だったということでは。まぢか。キッツ。〉
結構落ち込む。35年間も私なにしてたんだろ。
とはいえ冷静に考えると、苦労と努力をくっつけて考えるのが問題かもしれないと思った。
苦労がいけないということより、あらかじめ組み込まれていた苦労を超えるためにしてきた努力を否定される感じが本当に悲しいと思った。
苦しかったけど、私なりに向き合ってきたし、必死で成長しようと越えてきたんだ。
人によっては見て見ぬふりをして、楽しいことを伸ばすこともできるのかもしれない。でも私は溜め込んだ劣等感のせいで行動することすら出来なかった。やりたくないとはいえ苦労しても汚い感情を見つめ、向き合うしかなかった。
好きなことだけしてなんて生きて来られなかった。
色々な人がいうように、好きなことだけをしてそれに磨きをかけたら苦労にならないだろう。苦労と感じる時点で才能もないだろう。しかし、あらかじめ人生を自由に生きるために劣等感の克服が人生の前半戦で組み込まれているとしたら、それが苦手な不得意分野だったとしても、才能がなくても苦労して努力するしかないのでは?と思う。病気を抱えた人たちもだが、あらかじめ苦労がたくさん組み込まれた苦しい人生の人もいるのだ。それに意味がないとはとてもいえないし思えない。
そんな精神や身体に病気を抱えた状態で苦労を見ずに楽しいことだけを追求するのはかなりハードモードなのだ。
たくさん苦労をしてきた体感。
無駄な遠回りをしたと感じたり、苦しいことばかりで嫌になることもたくさんあった。一人で泣くことも多かった。でもひとつひとつ乗り越えてきた苦労・苦しみは私の心の財産になった。
ありがたいことに大変な人の気持ちは手にとるようにわかるし、辛さもわかる分、寄り添うことができる。
たまに苦しみとかをまだ知らなそうな若い子を見るとキラキラしていてとても眩しくて羨ましい。あのキラキラは私には出せない。
でも、傷だらけで頑張ってきた私もいいじゃないかと思える。苦しみや苦労の全てはそれらを越える努力の中で全て自信に繋がった。
どんなタイミングでも逃げなかった私は私が好きだと心から言える。それが苦労とそれを超えるための努力を繰り返してきた私の感想である。あの苦しみたちがなければ私はここまで考えたり悩んだり実践したりは絶対しなかった。
のほほんぼんやりと考えることなくひたすら楽しく幸せに生きていただろう。それはそれでいいのかもしれない。でも、苦しかったからこそ、今苦しい誰かの力になれたらとブログを書くこともなかったと思う。他者を自分のことのように思いやれるようになるのに苦労は最適だったと思う。
苦労は絶対無駄じゃない。
ただし、私はこの件で大変なことに気がついてしまった笑。それは明日書こうと思う。
大変な感情解放ビッグウェーブの到来だ!