過去からの負の連鎖②指示待ち人間形成
そもそも、
怒ると叱るは全く別物だと理解している。
怒るのは自分の思い通りにならないから。
根底には理解されない悲しみと、思い通りにしようという圧がある。
感情に任せている部分のウェイトが大きい。
対して叱るのは、
相手の成長のために、
感情的にならず諭す側面が大きいように思う。
もちろん、感情に任せていない分怖い場合もあるのだが。
話を戻そう。
伯父は、父親の威圧感や、すぐに腹をたてる性質が嫌だったから反面教師にしたのだ。本当に立派である。私は伯父以上に温厚で親切な人を見たことがない。
しかし伯父のように親を反面教師に出来る人は、本当にごく僅かな人だけだと感じる。
嫌だなと感じながら知らず識らずに同じことをしてしまうことの方が多い。
それは親からそのやり方しか学んでいないからだろう。
少なくとも、伯父がしたそれを私の両親は出来なかった。
祖父がそうだったように母はイライラすると感情に任せて私たち子供を怒ったし、私たち子供と同じレベルで怒りを爆発させていた。
言うことを聞かないと容赦なく叩かれたし、はじめは素手で、そのうち竹の物差しで叩かれるようになった。
小学3年生くらいの時だっただろうか?
算数の授業で使うからと30センチの竹の物差しが学校からの指定で購入することになったのだ。
そこからは叩いても手が痛くならないとの理由から竹の物差しで遠慮なくお尻を叩かれた。
学校め、とんでもないものを指定してくれたな。
本当に迷惑極まりない。
私には竹の物差しは授業で使うより尻を叩く道具という記憶しかない。
当時母は怒ると竹の物差しで。
父親は木刀を持って追いかけてきたのだ。笑。
冷静に考えるとその光景はバカバカしくて笑えるが、物差しも木刀もとんでもないものを使うと思う。
あれは本当に痛いし、あとあと叩かれた箇所がミミズ腫れになるのだ。
私も妹も女の子だったのに。
叩かれた方より叩いた方の心が痛いと良く言われたが、手は痛くないように道具を使っていたなあと思い返すと思う。笑。
痛み分けみたいな気持ちはなかったんだろうか。
母も(多分)小さい頃から叩かれて来ていたため、
怒る→叩いて躾ける
みたいなのを親から学んでいた。
それをそのまま実行しただけなのだろう。
悪気は全くないのだ。
なにより残念なのは、
怒られるときに、叩かれたり、威圧感をかけられると情緒が成熟できないように感じる。
よくいう、指示待ち人間の出来上がり(仮)である。
というのも、 小さい頃から体罰や不機嫌オーラに晒されると、怒られたときに、
なぜ怒られたのか?
なにが悪かったのか?
という考えに至るより、叩かれて痛い、怒られると怖い上に痛い思いをする。
という記憶や、感情が優先される。
防衛本能なのか、幼いからそこまで頭も回らない。
一番信頼してる親が叩いてきて、しかも感情まかせ、痛い上にフォローなしなわけだから冷静に考えたらそれはそうなる訳で。
体罰がいけないと言われる理由は身をもって体感しているからわかる。
叩かれるのが日常に組み込まれていると、親や大人が手をかざすだけで条件反射的に避けてしまったり、身体がすくむようになるのだ。
大人になってからも怒られたり、怒ってる人が苦手なのは。小さい頃に作られた
体罰や不機嫌に晒された経験が関係していて、不機嫌になられると大変な思いをする、条件的にまた叩かれる、痛い、怖い→怒らせてはいけない、なぜなら殴られるから。
みたいな思考回路が根底に潜んでいる。
それは、何故怒られたのか?
改善するにはどうしたらいいか?
より、怒らせると酷い目にあうから怒らせないように行動しようという抑止力につながる。
結果、指示待ち人間と言われる自分が出来上がるのだ。やって怒られるくらいならばやらない方がいい。
ちなみに、今だいぶ回復してきて、
自己分析もできるわけだが、当時は
痛い、叩かれた、またか、はあ
くらいにしか思わなかった。
毎日そんな環境だとこの状況にさらに思考停止がプラスされるとご理解いただきたい。
それも無意識に、だ。